昭和44年01月08日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ。十里を登りきって、向こうへ降りたらそれで安心じゃ、気を緩めるとすぐに後へ戻るぞ。」

 この御理解はどう言う事を教えて下さろうとしておるのであろうか、これはだれしも同じですけれども、一つの願いが成就すると、これで自分の願いも叶うた、これで安心と云うような心ができるのですが、私はひとつの事が成就したのが、向うに降りたら安心と云うことじゃないと思う。今朝から常住座臥というお言葉を頂いて目が覚めた。これはいつも座っておるという意味ですね、これは取次者としての理想像、その理想像が私共にとっては、三代金光様だと思うんですね。
 七十年間というもの文字どうり座り続けられたんですから、氏子十里の坂を九里半登ってもというておられるのは、これだけできておるからよいというのじゃないと言う事である、これだけ出来ておるからこれでよい、そこに安心がある、安心と慢心は紙一重とおおせられるのですから、住々にして慢心がある証拠におかげを落とすもとがある。相手を見くびるということはすべて慢心なのである、人を軽うみなとおっしゃるが相手を軽うみたらもう慢心です。
 おかげを受けておるからといって、それで安心のおかげではない、そんならそういうおちいりやすいところが人間の弱さというか、そういう様なものを、よく分からしてもろうて、どうゆう心がけになっとったら、そういう兎と亀のお話ではないですが途中で一眠りと言う様な事にならんですむおかげを受けられるか。うさぎがたとえば走ることにおいてはいわば実力をもっておるその兎がのろのろしておる、亀に負けてしまわなければならない。それは安心であり慢心だからなのです。
 そこで私共おかげを頂かなければならない、又ひれいを頂いて日の出の勢いと言う様な勢いも頂かなければならないけれども、そういう時に私共の内容として、どう言う様なものを持って行けたら安心だろうかと。私共のいわゆる願いというものが、何時も絶えず進められていかなければならない、そこにはもうこれで良いと言う事はない、自分の事を願う事で一杯の時代があります、もう他人の事なんかじゃない。もう自分のことでいっぱいなんだ、自分の家族、自分のお店の事でいっぱいなんだ。
 そこでその時分の事でいっぱいであるそのいっぱいの事で、一生懸命なり、いっぱしの信心が出来る、そしてだんだんおかげを頂いておかげでもうあとわずかで自分の願いが成就するという、いうなら十里の坂を9里半のぼった頃に安心が出来る、ですからそういう時に私共の願いというものが、もう一段と高いところ、もう一段と広い範囲内に自分の祈りがおかれなければいけんのである。私は今日常住坐臥と言う事を頂く、前にずっとお夢で頂きよった。
 私が新聞配達をしておる、私は若い時にちょうど二年余りですか新聞配達をしたことがあります。ですからその新聞配りの心というものはよく分っている、ちょうど日支事変が始まろうかという時分でした。私は大城、金島、大堰を私が受け持たせてもろうた。朝の4時ころからやっぱり10時ころまでくらいかかった、始めの間は部数が少なかったから、ところがそこにやはり日支事変という大きな出来事で、皆んなが新聞を見たいという思いもあって、それで日の出の勢いで拡張していきました。
 読者が増えた訳ですね、私はおかげを頂いて誰よりも部数を沢山出来る様になった。その時分のそのお夢を頂いた。所が私が配っいるのが今の西日本新聞を配っている、私は信心は新聞と同じ事、もうそれこそ3日前の古い新聞では何もならないと言う事、新聞の値打ちはないと言う事。新いに聞は早いが上にも早くなければいかん、信心とても同じ事、それを三代様は「日に日にさら」と仰られる、どんなに素晴らしいお話が出来ても、それが十年前のお話じゃもうお話に生きたものを相手に与える事はできない。
 いや話そのものが柔軟前の話であっても、現在私の信心が日に日にさらに進んでいっておるはら、そのお話がなんとはなしに新しいものとして相手に伝わって行く事が出来るんですけれども、問題はその日に日にさらの信心が出来ておらなければならない、それは丁度新聞の様なものだ、新しいニュースが今日報道される、そこに新聞の値打ちがある訳です。だから信心の値打ちというものはそれです。日に日にさらでおられると言う事、日に日に新たな喜びを頂いていけれると言う所に信心の値打ちがある。
 私は常住坐臥と言う事を頂いてから、御祈念して感じさせて頂いたことなんですけれども、西日本といや九州、山口を含めてわずかばかりの事、これは例えば九州の合楽ではなくて矢張り日本の合楽を願わなくてはいけないと言う事、私はそういうふうに頂いた。九州に合楽ありというのではなくて、日本に合楽ありという信心を頂かなくてはいかん。いわゆる目指しをそこにおかなければいけない、九州に合楽ありと言う事にはまだまだ遠いのですけれども。
 もういわば十里の坂を九里半どころじゃない、まだ五里か六里しか登っていないだろうけれども、そこんところをです、この調子で行けばこれには登りつけるぞというなら確信をもって登っておる。ですからその時にもう既に九州の合楽ではなくて日本の合楽を目指さなければならない、西日本ではいけない、それを祈りの内容でいうなら、私の頃だけでいっぱいなんだと、もう私は合楽の信者の事だでいっぱい、よその信者のことなど余裕はないと、例えば言う様な事では必ず安心は出来ん。
 12月の報徳祭に鶴見教会の先生、現在病院を経営しておられる、教会長というのはもう80いくつ、けどももう年配ですが教会長であるところのその先生、もう60位でしょう父親の跡を継がねばならない、そこでその今全国でごひれいを頂いておられる教会、人が助かっているという教会を一巡したいとという願いで、九州から先ずどこへ行ったがよいか御本部で聞かれた。4人の人に聞いたら4人の人が口を揃えて、九州では合楽でしょうと言われた。
 飛行機でここまで飛んできておられる訳です。実際はそうではないけれども皆んながそういうふうに、合楽に目をつけておられると言う事は、これはもういよいよ九州の合楽というものを感じる訳です。けどもそれで和賀心で一眠りさせて頂いたらいけないというのである。もう私の祈りの内容というものはです、いうなら九州を祈るではなく日本を祈ると言う様ななものが実際に出来ていきよらなければ、必ず一眠りするです、人間というものはそこが人間の弱さ、三代金光様が世界総氏子のことを願われ。
 世界真の平和を願われ、そのような大きな祈りが願いが本当に出来てくると言う所に、私はお道の信心がある。唯祈りの言葉の中に世界総氏子のこと、世界真の平和の事これは毎朝晩に拝詞の中に奉唱さして頂いておるから、祈っておるけれどもあなたの内容ににです、どの位実感のこもった祈りをもっておるかと質問を受けた場合に、ただ言うておるだけであってその実感というものは、実に弱いものである、そういう意味ではないそれは私が合楽の全信奉者のことが、祈れれる様なおかげを頂かねばならん。
 そこに私は今日のこの81節を頂かにゃいけんと思うのです。これでよいとは思わない是だけのおかげを頂けばと言う様な事では駄目だ、祈りと言うものは絶えず向上しておかなければいけない。考えるとけれども自分の事だけでいっぱいだ、自分のきょうかいの事だけでいっぱいだと成程それが成就するかも分らん、九州の合楽がどういう様な事が成就するかも分らない、けれども本当の意味で九州の合楽といわれるようにならして頂いた時にです私は必ずおかげを落とすと思う。
 皆さんもそうです、自分一人のこと、自分一家の事いっぱしの信心が出来ておれば、それは必ずおかげを受けると思う、けれどもおかげを受けた時には、もう既におかげを落とすもとができておると言う事。だからそこにおかげを頂く前にです、もう一段上の信心にお互いが進んでおらなければ、内容をもっておらなければいけないという言う事だと私は思うのです。
 ここんところはですから結局自分の信心はいわば自分の祈りが、願いというものがです少しづつでもよいから広い大きな願いにかわっていきよらなければ自分の信心は危ないものだと言う事をまず知らなければいけない。これだったら気を緩めるところがない。もうここまで来たのだからもう安心だと言う様な、もうあんしんした時には既にもう慢心になっておるという間違いない、慢心するからのろのろあるいておる亀にでも先を越されてしまうと言う事になって、一生悔いを残さなければならない。
 もう取り返しがつかない、向こうへ降りたらそれで安心じゃ気を緩めるとすぐ後に戻るぞ、と仰るのはこれは一生を通じてのことだと思う。教祖様はそこのところを一生が修行じゃとこう仰っておられる、ですから私共が向うへ降りたらと言う事は、御国替えを頂いたらと言う様な感じがする、何故って一生が修行じゃとおおせられるのだから、そこで今日私が言っておるのは、その一生が修行じゃと言う修行の内容が変わっていかなければならない、高度な修行にならなければならないと言う事を申しましたですね。
 けども何と言うてもこれは神様へ打ち向かう、いわばいっぱいのもの、一心というものあそう中々出るものではないけれども、なら自分の事があり、自分一家の事になって始めて一心が立つようなものなのですから、これは先ずそこを外してはならん。まず自分がおかげを受けることを一生懸命ならなければならんけれども、この調子で行けば九州の合楽もあまり遠いことはないぞと言った様な見とおしが付いた頃に、私の信心が少しもそれから伸びていないならば。
 なら私がよし九州の合楽と言われる様におかげを頂いても、もう頂いた時には既におかげを落とすもとが出来ておるという事を知らなければならん。皆さんが自分の店、自分の一家この調子で行けば自分のところ、一過性を揃えた信心を指して頂いておるのであるから、もうこれだったら安心だと言う様な思いではなくて、私の一家が信心にならせて頂いたら、その一家がもう一段と高度な信心を願い、又願いの内容が一段と今まではいわば感じもしなかった。
 思いもしなかった様な事の上にまで祈りが届いて行く様にならなければいけない。この頃はもう切実にそうした意味合いにおいての人の助かりと言う様な事が、祈れてなりませんと言う様にはらなければならん。それならば安心である、この調子で行けば安心である。もしその祈りが私はここまでおかげを頂いているのに、その祈りが出来ていないとするならば、これはおかしなことになる、いうならば私が朝の三時半に出て参ります、ここへもうこれさえできれば安心だと言ったらもうお終いなんでと。
 それを今私はある意味合いにおいて悦に入っておる。朝の三時半にここに出て来ることが、四時のの御祈念を仕えさして頂くということが、そして12時までの奉仕さして頂くと言う事が、もう私の命だと自分で思わして頂いておる。だからそれだけのことが出来たから安心だと悦にばっかり入っておったんじゃいけんのだ。いわば私共の目指すところは、何と言うても金光様なのである。
 三代金光様が朝の四時のお出ましから夕の四時のお引けまで、つとめぬいて下さった、お座り抜き下さった、しかも70年という間をそれこそ油断されるいとまもないほどに、全信奉者だけではない、全世界の真の平和を祈り続けて下された、いわゆる常住坐臥いつもが御結界の御用奉仕をなさっておられる、御心持が私共の目指しでなからなければならない。こう頂いてみると私自身そう言う様な感じ。
 もう私はこれが出来る様になったから、大丈夫だと言う様なものが出来かかって来ているところに、今朝のお知らせであったと思うのです。常住坐臥、成程一日紋付き袴とならないと致しましてもです。やはりいつもが御結界に奉仕をしている内容が私共今は出来ません。もう本当に出来ません。もうここ下がったらもうだめです、極端にいうならここ御結界にすわっている時だけです、やっとかっともう降りたら違う大坪がそこにある、違う私なのだ、自分が分るこれではやはり安心は出来ない。
 そこに安心したら必ずあとへ戻るぞと、仰せられるのがそのことではなかろうか。さぁ今日からは常住坐臥を目指せと、言うて下さったような気がする。信心はもう新聞と同じ事、新しい事が報道できると言う事が値打ちなのだ、私が日に日にさらな信心を頂いてそれをいよいよ頂いていくことのために、わたしはまだ手は届きません、届きませんけれども常住坐臥をもって、私の目標にしなっければならないと言う事を、今日お気付け頂いた様に思うのです。
 西日本から日本全土へ、いわば日本の合楽を目指さなければならない、と言う事なのです、先日泉尾の「いずみ」という小さいパンフレットが出ております、それに書いてあるのにいわば世界の泉尾だというております。だから私も必ずそういう時代が来るだろうと、確信しなけりゃいけないと私は思います。私は現在では九州の合楽であっても、日本の合楽にならなければならない、その向こうにはもう一つ世界の合楽が、あらなければいけないと言う事。
 これだったらゆるめる暇が無いでしょう、それには何と言うても取次ぎ者、私の信心は何と言っても常住坐臥をめざしておかなければいけないと言う事。皆さんの信心においてもしかりである。自分だけの事にいっぱいであって、今御造園があっておるけれども、あれは教会の事でと言った様な事で、皆さんが日々の御用をされるとするなら、これは本当のおかげにはならない、そのことが自分の事として実感を持って教会の御用ができておるとするならば、あなたはもう合楽の信者であると言う事がいえます。
 合楽に御縁を頂いてただお参りしておると言う事だけでは、そういう意味合いにおいては、いわば合楽教会の者と言う事は言えない、合楽教会の者ならば合楽教会の事が自分の事として思われ、願われる内容になっておらなければ出来ないと思う。願う事は親先生の信心が一段と向上していくことを願わしてもらえれる、皆さんにならなければいけないと思う。親先生が不健康であるならば親先生の健康を本気で願わしてもらえれる貴方方にならなければいけないと思う。
 それが願えれてこそはじめて合楽の信奉者と言う事が言えれるのではないでしょうか、いわゆる金光教の信奉者というならば、本当に金光教の事が、教団の事が心配になり、又その事が切実な願いになって行くようなおかげを頂かなければ、本当の金光教信者とは言えないと思う。先日ある先生が「大坪さん金光教の信者は現在どれだけあると思うか」「さぁ実際どの位あるでしょうか」「まぁようやく現在教職を頂いておる教師の数がまあ正確な数だろう」と言われた先生がありました。
 金光教の先生をしておる人達がまあ確実な金光教の信者だと言うのです。してみると僅かです。今何万人、何千人いると言うのはそうあてにはならんですよと言う事なんです。それはいつ信心をやめるか分らんのだから、けれども金光教の先生どもしておればまぁまぁ本当言うたら教会を持っている教会長だけだと言うても良いと私は思うんです。してみるといよいよ少ないと言う事が分る。
 そういう意味合いにおいてやれ金光教の信奉者である、確実である間違いがないと言う様な信心はお道の教えをもとにして、日に日にさらな信心の喜びを頂かしてもろうてその喜びが自分だけではない、自分一家だけではない、そうした祈りが段々向上していっておるような信者をもって私は金光教の確実な信者だといいうふうに感じるのです。どうぞ今日の十里の坂を九里半登ったと言うのをただひとつのおかげということ。
 これを願うためにおかげを頂く為に一生懸命信心して一応の目指しが出来たころには一段信心がその、一つ向こうの信心に進んでおらねば、そのおかげは危ないただそれだけにとどまっておるならば、貴方の信心が 成就した時の願いが成就した時にはもう既に後ずさりするようなものが、もうすでにできておるんだというふうに考えさして頂いてそこに信心の工夫が必要ではないかとおもうです。
   どうぞ。